子どもはかしこい6
角口さかえ
「最近うちの子が、私の言うことを聞かなくなったのはどうしてなんでしょうか?
」という質問がときどきあります。3才ぐらいのお子さんを育てている若い親ごさんです。特に初めての子育てにあたっては、丁寧に、そしてすこし神経質に子どもに接してきたのに、ここにきて今までと違う子どもの反応に困惑してしまうのです。子どもが親の言うことを聞かない・言うとおりにしないということで、子どもとどう接したらよいのか分からなくなってしまうようです。はっきり言えることは、この時期の子どもは新たな成長の節目にいるということです。毎日これまでと同じ環境にいて生きているのですが、しかし子どもの内側が少しずつ変化しているのです。今回はこの成長の節目にスポットをあててみたいと思います。
※このような成長の節目はその後もあります。
子どもは生まれてから、約一年かけて歩けるようになりました。その後は少しずつことばを発するようになり、やがて2才すぎるとことばを使うようになり、おしゃべりが発達してきます。とても賢いことばの神様のうちにいて、ことばを自分のものにして使いかたを覚えました。周りの人とことばをもって付き合えるようになりました。ここまでは前回までにみてきました。(もちろんその後もかしこいことばの神様は子どもをとりまいています。)
そして今3才に近づくと、ことばになんらかの意味があることに気づきはじめて、事柄にふさわしく言えるようになります。ことばの意味というものは地上での約束事なのですが、ことばにならないところにかしこさが隠れています。「○○ちゃんは黄色が好きなの。」「私はピンクが好きなの。」「○○ちゃんはまだ小さいからこんなのできない。」「ママはこっちで仕事してるのね。」「ボクは○○ちゃんと遊ぶ。」などなど・・・。たあいもない普段のことば使いのなかに、子どもらしい認識があります。いつも通りにするさまざまな事柄のなかに、ことばにならないような、あるいはあえてことばにしていない事柄や動きについてもよく分かっています。あいかわらずかしこいです。それは3才までに積み上げられた生活習慣により、子どものなかでは当たり前のこととして浸透しているのです。そして事の次第、事の状態にふさわしくことばを捕えるようになってきました。遊びもことばを介してできることを覚えます。「貸して!」「ダメ!」など、まだまだ自分だけの世界に立っていてけんかもしますが、それでも大人が少し助けてあげる、見守っていることによって、けんかにならず待つこともできます。しばらくすると貸してあげることもできるようになります。何ごとかが自分の思いどおりにならない時、子どもの内側には、がまんするという体験がせまられます。少し嫌な気持ちもがまんします。そして待つことで相手との距離感などが芽生えます。好き嫌いも少しずつはっきりしてきます。そんな日々が過ぎていき、いつの時からか、子どもが何かに見入っているようなことがあります。ちょっと考えているようでもあります。あるいはボーッとしているようにも見えます。そんな瞬間が垣間見えるときがあります。大人はふだん忙しくしているからなかなかその瞬間に気づくこともなく過ぎてしまいます。しかし、子どもの動きをよく見ていると分かります。いったいその時の子どもの内側で何が進行しているのでしょぅか?子どもの内側に考える力が芽生えているのです。考えると言っても、大人のする論理的な思考にはまだまだ遠い考えです。そしてその後、その考える力に付随するようにして「私」が入り込みます。
例えば次のことをあげてみます。
「聖書」にあります。エデンの園でアダムとイブは禁断の果物を食べました。そのとたんに自分たちが裸であることに気づきました。そして恥ずかしさを知りました。それまでは相手との距離がなく、アダムとイブは自他の区別もなく幸せでした。しかし、ヘビの誘惑にのった結果、相手を、または自分をも見る目が変わりました。気づきが入り込みます。距離ができます。私たちが普段つかうことばで言うならば、いわば「目からうろこが落ちた」瞬間ではないでしょうか。あるいはまた『赤ずきんちゃん』のおはなしでも同じことがみられます。赤ずきんちゃんはオオカミのことばによって森の道にはきれいな花がたくさん咲いていて、小鳥がさえずり日の光がキラキラして美しいことに気づきます。赤ずきんちゃんはそこに目を向けます。「ああ、森のなかはなんてきれいなの!!」それがやはり目からうろこが落ちた瞬間なのです。それから大好きなおばあさんに花束を作ろうと、花を手折りながら森の奥に入り込み、もっときれいな花があると印象から印象へと誘われてしまいます。
このふたつのイメージは、あまりにも有名ですから誰も周知のことです。しかし、これらのイメージが、心の内側でおこっている風景を言い表すのにとても相応しいものであるということはあまり知られていません。心のなかで意識がすこし目覚める、と言ってもいいようなひとつの節目のことを表しています。
3才ごろまでの小さい子は、それまでは誰とも一体となって生きていました。言い換えるとしたら環境と一体となっている意識の状態です。親のする事、誰かのする事、外の動き、聞こえるものも見るものも、全てがみずからの体の器官そのものとして感じ取っているのです。あるいはこうも言えます。内と外の区別がないような世界で生きているのです。つまりエデンの園にいるようなものなのです。小さい子どもはまわりにあるもの、いるもの全てが自分を受け入れてくれるのにふさわしいものとしています。もちろんそのようなものだとの意識はありません。子どもはその安心安全な園から、今やおのずと自分から出ようとしているのです。その時期がきたのです。子どもはどこからかやってくる耳には聞こえない声に耳を貸すのです。それを例えば光のごとくに感じているかもしれません。そして、物ごとをよくよく見るようになり、相手を見るようになり、自分との違いなどに気づきはじめます。距離が出来てきます。自分に対してもほんの少し距離がもてます。名前を呼ばれると目線をしっかり相手とあわせることができます。そこにはっきりと「私」や「僕」と言えるその子の人としての中心がうかがえます。それが地上の人としての核が降りた時です。キリスト教的なことばで自我の受肉と言います。
その状態になる前は、いわばカオスの事態がしばらくつづきます。子どもは自分でことばが使えるので言ってみるのです。ことばを使いこなせるようになるための練習をしています。でもそのときのことばの意味には重きをおきません。気分次第です。言うことやる事が支離滅裂になります。自分で言ったことばの意味と事の次第がずれていても頓着しないので、外からみるとめちゃくちゃな状態となります。一種のカオスです。そのカオス状態のところに、光が差し込むようにしてあらたな「私」「僕」という自我の意識がやってきます。はじめは今までと異なる自分にどうしていいのか本人もとまどいます。無自覚のところで生じるこの変化に、子どもは慣れないうちはぐずったり、荒れたりします。急に甘えるようになる子もいます。言うことを聞かないようにもなります。このとき大人から強いことばで言われたりすると子どもはキズつきます。自分でもわからないのに、そのことで叱られたりするとまるで救いがありません。こうした小さい子の成長の節目の時期は、大人が受け入れてくれることを願います。命に危険がない限りで、子どもは何してもゆるされるという安心感のうちに生きていられることが子育ての要です。不安を強く感じる子もいるかもしれません。その時もしっかり受け止めてあげることで、安心して遊ぶことができるようになります。あるいは、つよく何かこだわるようになったり、どこかしら融通のきかない頑固な感じを秘めているようにさえ感じられるかもしれません。一種の強さを秘めているのは間違いないようです。その、目にはみえない力が、普段に言う自我「私」の受肉なのです。外に現れる様子は子どもによって違うのは言うまでもありません。これはこちら側の地上の世界への目覚めの第一歩なのです。もちろんその後はまたいつも通りの暮らしをしていきます。そんなことなのだととりたてて言う必要もありませんが、子どもの内側が変化していることを知っていることで、大人が躊躇しなくてすみます。もちろんただわがままにしてはいけません。
ここからは私たちが暮らす現代社会のかかえる問題を別に考えていきます。現代の社会では主知主義が蔓延していて本来の子どもの子どもらしさを守ってくれません。そのことは100年も前からシュタイナーは言っていました。早いうちからお稽古ごとや塾にいかせる、英語を教えたほうが将来の国際社会に有意義な人材になれるかもしれない、という考えかたです。そうかもしれません。そういう人もいるかもしれません。しかしいかがでしょうか。未来の子どもが生きることに保証というものはありません。結局は子どもが自分で考えることのできる人になるほうが良いのではないでしょうか。主知主義は、知識の詰め込みとして現代の教育の場に幅をきかせています。そこでのさまざまな問題は既に社会問題として取り上げられています。いじめ問題を筆頭に、すぐにキレる若者や二学期のはじめに自殺者が多くでる、などなどあげればきりがありません。主知主義の教育が、いかに子どもの成長に相応しくないのかを表しています。
ある人が、うちの子にはまだ何も教えようとはしていません。とおっしゃるでしょう。でももう少しよく考えていただきたい。何か特別な事を教えなくとも、主知主義は深く入り込んでいます。ここで話題にしている3才前後の子どもが、「何?」「なんで?」を繰り返して言いますから、どうしても親は問いを発しているからと思い、その答えを懸命に言うのです。ここにその主知主義の小さな悪魔がひそんでいます。なぜと問う。答えを言う。なぜと問う。答えを言う。の問答を繰り返すうちに、子どもは答えが出てくるという錯覚に陥ります。学校教育も多くはこのような小さな悪魔の手先として子どもに考えるチャンスを消し去っていきます。答のないこの不思議なことはなぜなのか、どうしてなのか、と自分から探しつづけるという習慣をつけたらずっと後になってから、自分から考える人となります。公教育はまだこの点に気づいていません。加えて、答えなどと言わなくても、つい○○だからと事の理由を述べたり、原因を追究したりする態度も同じことです。小さい子に対してのことばかけが多すぎる場合も同じです。つまりことばは地上での約束事という意味を含みますから、知的な成長のみを早くから多く刺激してしまうのです。かしこいことばの神様の守りから、早くに地上のみの物質的な考えへと出てしまいます。このような現代の問題はあまり語られていません。子育てする誰もが、一人ひとり、その人らしい人として育つことを願いつつも、現実は複雑でいばらの道です。では大人・親はどうしたら良いのでしょぅか。その点は次回に回します。
この「私」自我の受肉を指して、むかしの人は「三つ子の魂百までも」といったのでしょう。ことばとしては魂と言い表していますが、シュタイナーの人間観からみると厳密には「Ich・私」の事でしょう。その後も人として生きている間はずっとこの「私」が自分の体を衣のようにまとって生きていくのですから。